全国有数の穀倉地帯・庄内平野、その南の一郭に八沢川を主水源とする水田地帯があります。今では実り多い豊かな水田が広がっているこの地区の農民と八沢川との闘いを遡ってみましょう。
八沢川は水量に乏しく、農民にとって引水は死活問題でした。慣行や人々の記憶に頼っていた分水基準を明和元年(1764年)庄内藩の立会のもと“4分6分”分水の成文化され、この基準が近代に至るまで地域の重要な約定となっていました。
明治に入り、用水不足の根本的な解決のため、隣の菅野代川の水を八沢川に引水する大事業がおこなわれ、失敗を繰り返しながらも昭和29年3月巨費を投じた一大事業が完成したのです。
現在の上郷地域に「耕地整理事業発祥の地」という説明版があり、“農民主導のもと, 村ぐるみで実施したのがこの地で我が国有数の高収産地となる。”とあり、農民の引水への熱意をつたえています。
鶴岡市の旧藤島町では農業や農業用水の大切さを知ってもらおうと、田植え体験が行われています。藤島町一帯に水を届けている因幡堰、その歴史を紹介します。
最上義光が新関因幡守久正を藤島城主としたことが因幡堰開削の始まりです。因幡守は地元民の悲願であった赤川から藤島領内に引く用水溝、因幡堰の開削に着手しました。
一時は中断した堰の開削でしたが、宝永2年(1705年)の庄内地方大干ばつの際、藤島郷の用水不足がひどく、農民は困窮を極めました。当時の藩主酒井忠真公は農民の苦しみを目の当たりにし、直ちに因幡堰の大改修を英断したのです。
近年では堰を取り巻く水辺環境を地域住民みんなで見直そうとの呼びかけに、毎年恒例となった「大堰クリーン作戦」などのイベントも行われ、因幡堰にまた新たな歴史が加えられているのです。
吾妻山付近に源を発し、村山地方を北上して酒田市で日本海に注ぐ最上川。庄内平野における最上川右岸の灌漑は、上杉景勝の重臣甘粕景継が酒田を支配したことより始まります。
景継は今から約400年前、天正19年(1591年)から5年の歳月を費やして大町堰を開削しました。その後も幾多の改築工事を重ねながら地域の引水に貢献してきました。
昭和62年、現地点に最上川中流堰建設計画が持ち上がり、そして平成7年(1995年)に最上川さみだれ大堰が遂に完成しました。これこそ実に400年の時間をかけ、最上川右岸の稲作灌漑用水としての通水が完成を見た時だったのです。
最近では魚類を用水路に放し、地域及び近隣の親子連れが「ざっこしめ」などのイベントも開かれ、400年の歴史とともにますます地域の人々に親しまれる存在になっています。
庄内地方の南東部、鶴岡市櫛引町。櫛引町の田んぼに立って東を見上げると、月山、湯殿山の力強い姿を眺めることができます。この櫛引町の水田は、美しくそびえ立つ月山からの水の恩恵なしに考えられないのです。
かつて櫛引町黒川地内は不毛の土地でした。大館藤兵衛元貞という人物が当初田沢川を水源とする延田堰を開削しましたが、川の流量が少なく安定した水源とならなかったのです。そのため、月山山中をしらべあげ、天保8年(1837年)、流域の異なる田麦川水系から導水する天保堰の開削工事に着手しました。前代未聞の難工事といわれた急峻な山腹での水路開削でしたが、翌年には延長9.9㎞に及ぶ導水路を完成させました。
霊峰月山からの恵みの水は、天保の時代より庄内平野の水田を潤し、現代でも営々とその役割を果たし続けています。
国内でも有数の穀倉地帯として知られる山形県庄内地方。鳥海山や月山を擁した広大な美田が美しい農村景観を創りだしています。その庄内地方の最上川の左岸域一帯を潤しているのが北楯大堰です。
今では見事な水田が広がる豊かなこの地域も、以前は水利が悪く荒野が広がっていました。この荒野を整備し、村民の暮らしを豊かにしたいと願ったのが、狩川城主の北楯大学助利長でした。利長は「水馬鹿」といわれるほど地道な調査を10年間行い、開拓工事を義光に提案、強いリーダーシップで、わずか4か月で工事を完成させました。
現在でも北楯大堰は水質が良好なため、上流では大堰の余剰水を家庭用の池に引水したり、各種の洗浄用水などに利用されています。また、下流部には水生植物園をそなえた農村公園、ビオトープやホタル池などが整備され、地域の人々の生活にかかせないものとして親しまれています。