大蔵村清水、最上川右岸の絶壁の上に「要の松」と呼ばれる見事な枝ぶりの松がそびえています。この崖の下の深い淵は、安定して水を導くには絶好の場所で、幾人もの先人達が取水を試みましたが、厳しい地形条件に阻まれてきました。
時は明治41年、地元有力者の高橋源助氏等は揚水機を据付けて開田しようと計画しました。ところが、当時としては最新式の揚水機も期待通りの流量を確保できず、運転経費も莫大な額となったため、「要の松」崖下からの導水を断念。はるか上流の小国川から水を引くことにしました。困難を乗り越えついに通水を迎えた時の喜びは例えようもなく、盛大な祝賀パレードが催されたということです。
平成の時代に入り、「要の松」崖下からの導水にようやく成功します。先人達が幾度となく試みた「要の松の主」への挑戦は、現代の技術力をもってようやく実現をみたのです。
山形県の北東部、新庄市では毎年八月、歴史絵巻を思い起こす日本一の山車パレード「新庄祭り」が夏の夜を彩ります。江戸時代のなかば、凶作に見舞われ疲弊した領民を励まし豊作を祈願するため、時の藩主戸沢正諶が始めたといわれています。
戸沢政盛は明治維新まで240年余にわたりこの地域を治めてきました。当時、新庄盆地の大半は荒漠たる原野でしたが、戸沢氏は積極的に新田や鉱山の開発に力を注ぎました。そんななか、水田開発においては水の確保に大変な苦労を強いられ、近年まで熾烈な水争いを繰り返してきたとの記録が残されています。
一方、新庄の城下は扇状地の下流部に位置し伏流水が豊富な湧水となって姿を現す場所に拓かれました。そして今なお五つの堰が城下を潤す代表的な堰として、住民に欠かせない生活用水としてその役割を果たしているのです。
小国川右岸一帯の水田農業に多大なる貢献をした三光堰は、舟形町の水田の約3分の1に当たる受益面積があります。今では地元の農家は水をたたえた堰を身近な用水として利用していますが、その開墾の道は平坦なものではありませんでした。
嘉永3年(1850年)の新庄藩財政再建のための福寿野開田計画がその起源ですが、その時は水田を拓くには至りませんでした。時は移り、明治に入って何度か開田の計画が持ち上がるなか、明治42年東京芝白金三光町の堀卯三郎が今の資産にして、約10億円以上のお金を投下して水路を作り始めました。その幹線水路に三光堰と命名、その後農地改革を経て昭和30年についにその完成を見たのです。
現在は、安心して生活できる農村環境が整い、消流雪用水・防火用水・生活用水として農業以外の水の利用がされ地域の生活環境になくてはならない物となっています。