山形県の内陸部の南部一帯は、置賜地方と呼ばれ、米作りを中心とした農業が大変盛んなところです。しかし昔は、扇状地の平野部は保水力が乏しく、晴れの日が続くと全く水がなくなる場合も頻繁にあったのです。
10代藩主である上杉鷹山は、現在の高畠町糠野目から南陽市の赤湯・宮内・梨郷までの30余りの村からなる「北条郷」に安定した水が注ぐようにと、当時の勘定奉行である「黒井半四郎忠寄」に農業用水の調査を命じ、最上川の水を堰上げて「黒井堰」をつくりました。
国営・県営事業により、「黒井堰」はコンクリートに生まれ変りましたが、現在も置賜地方の水田には欠かせない水路として活躍しています。
1801年 北条郷の農民達は、黒井半四郎忠寄の功績を讃えるため巧徳碑を福沢村喜多院の境内に建て、先人への感謝を今もなお忘れないで後世に伝えられています。
広大な水田が広がる屋代郷地区。この地区は、土地が低いため水はけが悪く、ひどくぬかるので「大谷地」と呼ばれ、県内でもまれな湿地帯です。沼のような田んぼで先人は大変な思いをして農作業を行ってきました。屋代郷の新田開発は、もと伊達の家臣であった深沼村(高畠町)の結城治部が造った「治部堰」が始まりといわれています。
1928年 大谷地の水不足をなくすために、屋代郷耕地整理組合が作られ、13年の年月をついやし1948年蛭沢湖が完成。1956年には水はけをよくするために、排水改良工事が行われ水田の区画整理も進められました。
1982年に豊穣の湖として「水窪ダム」が完成し「蛭沢湖」とともに大谷地を潤しています。
江戸時代にはかなわなかった、先人の願い、屋代郷農民の悲願であった大谷地の乾田化、それを可能にした"昭和の偉業"が生きています。
田畑をうるおす水。この水を得るために、奥深い飯豊山中に先人が作った農業用水のトンネル「穴堰」があります。
この穴堰の計画は1798年、奥田村(川西町)の村役人 横山平左衛門が、米沢藩にお願いしたことに始まります。
米沢藩は土木水利に実績が多く信頼の厚かった家臣 黒井半四郎忠寄に調査設計を命じ、1818年8月 念願の穴堰のトンネル工事が完成し玉川の水を白川に引くことができました。翌年の1819年には長堀堰の幅を広げる工事を行い米沢藩の領内でも最大の堰が完成し、安心して農業ができるようになったのです。
1980年 白川ダムの完成により「穴堰」は役割を終えました。黒井半四郎忠寄の夢がまさに190年の時の流れを経て実現したのです。「穴堰」は県の史蹟文化財として飯豊山の山ふところにその姿を横たえています。