田畑が多いこの地を長年潤してきたのが、この広大な湖、徳良湖。一人の青年が、この湖を作るきっかけとなりました。時は明治時代、明治維新で日本の文化や仕組みが急激に変化をみせ、それに伴い、物価の高騰が続いていました。
お米の値段もどんどん高くなります。「これから、お米がますます高く売れるかもしれない」
そう考えた人々は、こぞって新しい水田の開発に乗り出しました。
この時の歌や踊りが、現在でも語り継がれている「どんつき唄」となっています。そしてこの歌が、山形のまつりとして有名な「花笠まつり」で歌われる「花笠踊り」の歌となるのです。
豊かな水田からの収穫だけでなく、唄の文化をも生み出した徳良湖。尾花沢のあらゆる文化に革新的な変化をもたらしたのです。
この最上川の中流部、およそ1200ヘクタールの広大な農地を潤している、農業用水路 最上堰。
大江町、寒河江市、中山町、山辺町、山形市、天童市にまたがっています。最上川から引かれた水のおかげで中山町東部一帯は農業が盛んに行われています。
明治時代 この村人の切なる願いを実現へと導いたのは、中郷村の安孫子兼治郎と、長崎村の柏倉文四郎です。数々の難工事のすえ、1888年 明治21年12月2日、ついに完成しました。
最上川から水を引くこの水路は、現在の大江町から中山町に至る、全長23キロメートル、およそ710ヘクタールを灌漑する堰となりました。
普段 何気なく使ってしまいがちな水。この水を手に入れるために、先人たちが成し遂げた大事業。そこには、多くの人々の大変な苦労があったことを忘れてはなりません。
江戸時代の文政四年 およそ190年前、上山中生居村の庄屋「奈良崎助左衛門」は、農業用水を山から引くことを考えました。
水源は 山形県側ではなく宮城県側を流れる「一枚石沢」。当時「角田藩」の領地でした。
上山藩を通じ「角田藩」に再三願いを出しましたが、その思いは届きませんでした。20年の歳月と莫大な私財まで投じた助左衛門。 願いがかなえられないまま69歳でこの世を去ったのです。
息子の容之助は、父の名をもらって二代目「助左衛門」となり、和七 と上山藩士族「柴田清左衛門」ら5人によって願いを出しました。
時の山形県令 三島通庸は、この分水計画にきわめて乗り気で、助左衛門らの熱意と三島県令の土木事業に対する熱意によって、明治12年12月 待望の許可が下りたのです。 この工事に要した人夫数は 23,000人。 明治14年6月 横川堰が完成したのです。
山形市内を流れるこの水路は「堰(せき)」と呼ばれ 笹堰・御殿堰・八ケ郷堰・宮町堰・双月堰の 5つの堰「山形五堰」があります。
1624年寛永元年、当時の山形城主 鳥居忠政は 馬見ケ崎川の洪水から城と人々を守り、安定した水を確保するために川の流れを変える大工事を行いましたその時 街の中に枝を広げるように5つの水路「山形五堰」をつくりました。
明治、大正、昭和と五堰の重要性は一層たかまり農業・生活用水をはじめ水車を利用した粉引きなど様々な産業に利用されてきました。
山形五堰の総延長は115キロメートル昔の石積み水路が完全な形で残っているのはわずか8キロメートルです。
山形五堰は、地域の人々にとって一番身近な存在であり、ゆとりとやすらぎを与えるせせらぎとして今も山形市内を流れ続けています。
山形県の中央に位置する寒河江地区は、東に奥羽山脈、西に月山、朝日連峰を望み、寒河江川及び 最上川に囲まれ、平野部には豊かな水田地帯が広がっています。
寒河江市と河北町に広がるこの広大な水田を潤しているのが、堰と呼ばれる農業用水路です。寒河江川上流から水田に水を引くために3つの堰が造られました。
「二ノ堰」は、文中2年、寒河江の殿様大江時氏、元時親子が、城を大きくする時に堀に水を引くために造ったものです。「大堰」も谷地城の堀に水を引くために造られました。天文14年ごろに、谷地の殿様:中条長昌が造ったといわれています。
「高松堰」は、高松左門という人が造ったといわれています。
昭和12年3月に完成した堰は、いままでの大堰と二の堰の水の取り入れ口を一箇所に統合し「昭和堰」と名付けられました。